横崎山の鹿蔵狐の話(竹森)
 昔といっても、そう古くはない明治時代の話です。 竹森の横崎山に、三っ尾の銀狐がおりました。その三っ尾の銀狐は、出雲崎街道に出て、往来の人々をだましては、食い物を盗っていたとの事でした。人々はその銀狐の名を、「しかぞう」と呼んでいました。
 この鹿蔵狐は、源頼朝が富士の巻狩をしたときに逃げてきて、ここに住みついたといわれていますから、六百年余も生きている勘定になります。
子供も沢山持っておって、横崎山の畑等へ仕事にゆくと、すぐそばまで子狐をつれてやって来て、ひなたぼっこをしていたというのです。夜になると狐の嫁入りと称して、掟燈が万燈のように連なり、がやがや言いながら土手を通って行くのを、竹森の年取った方々は潜んな見たといっておられます。
 又鹿蔵は、狐のお産が重かったとき、人間に化けて、地蔵堂の小山宗庵という医者に頼み、子狐をとり上げてもらい、その礼に鴨二羽をもって行ったなどと、まことしやかな詰まで伝わっています。
 さて、鹿蔵もそうそう長く生きられるわけはなく、赤沢の松太郎という人のために、とうとう鉄砲でぶち(撃ち)殺されてしまったという事ですが、一説にはそうではなく、多兵治という人が撃ち、鹿蔵狐はこもをかぶり、年寄りのじさに化けてうたれた足をひきづりながら、「多兵治がおっかない。おっかない」と言いながらカツコウ (あやめ)沢のもとめぐさ(求草) の塚の下を通って夕闇せまる米山をめざして行ったともいわれています。
一族のきつねたち(狐等)は鉄道(越後線)が敷かれると皆どこかえ行ってしまいました。
 これよりさき、明治二十五年七月十二日に最初の土地の地券割方をしたのですが、その時は悪い土地ものこさず、すっかり割って行ったのです。いよいよ横崎山の割方をする事になったその早朝の事、割方衆がみんな不思議な夢をみました。その夢に鹿蔵がでてきて、「自分の土地をすこし残してくれ」というのです。そこで割方衆はこれも何かの縁と思って、頼みを重き入れて、横崎山のふなくぼ(船窪)の沢という所に地券番号一、一五五番として、縦三・四間、横二・九間の土地を狐のために残したということです。今なお、この古文書はのこっておりますし、この土地には狐の穴が今もあるそうです。 風光明媚、大河津村の中心丘陵の槙峰山にまつわる鹿蔵狐の伝説はこの辺でおわります。
   *横崎山附近一帯は工場団地等に造成されて昔の面影を知ることは出来ません。