四ツ塚について (入軽井)

  山の上に塚が四ツ並んでいるので、古くから里人に「四ツ塚」と呼ばれていました。有信の旧家長谷 川さんの前を通り五分一塊を左に真新しい赤土の幅広い林道をジグザグに登ってゆくと、峠に出ます。
  ここにその四ツ塚があるのです。峠の道は更に行けば入軽井部落へ下りますし、北に折れて林間に道を求めれば求草の山道につづき、西は上桐へと通じます。山頂はゆるやかに起伏して、はるか小木城を望み、伊夜日子(弥彦)は勿論、遠く佐渡も浮ぶ日本海もみえてまことけしき(風景)のよい山です。
古くはここを木原山(桐原山の誤りか)といったと古書にありますが、ここが城の跡と伝えられるのも「当然に思われます。地図には海抜九十五米とうたってあります。道を登り南側、薮の申にあるこの四ツ塚は、今から四百年程昔、山上に城をかまえていた上杉謙信の家来で、勇猛な斎藤朝信が上杉家の家督騒動の折、景虎に加担して刈羽郡赤田城へ引き移った隙に、不用物を埋めて行ったその盛土だと伝えられています。
 塚はいずれも高さ二米、直径十米足らずで、西端の一つは発掘したと思われる跡があります。この四ッ塚と相対して道の南側には「馬の足洗場」という凹地があり、また宮山というのも近くにつづいています、しかも五分一より登る所をごしょが小り(碁石ケ入り)と呼びます、これはもともとは御所ケ入と呼んだのが起りで、織田信長の愛妾、杉のつぼね (局)が住んでおった御所が山中にあったので、そこへの道という意味で御所ケ入りという地名がついたといわれます。この下の田に、お前田というのがあるそうで、杉の御前に差し上げた米をとった田だろうとも伝わっています。
 あれやこれやと実に四ツ塚を中心とするいいつたえ(伝説)は豊富です。更にこの木原山の城主につ
いても次ぎのようにいろいろの説があります。
  軽井次郎時宗
  斎藤下野守朝信
  浅井長政
  筒原城主高梨播磨守景宗(筒原は桐原の誤りか、吉田東吾氏説)
  志田三郎の出丸
  杉の局の館
 戦国時代は昨日あって今日はない命、めまぐるしく変わる世の中でありましたから、いろいろな殿様が住んでいたとも言えましょう。四ッ塚に何が埋まっているかわかりませんが、討死にした武士の墓 とも考えられるのではないでしょうか。いずれにしろ、古きを求めて、この四ッ塚を尋ねる時に、  粛々と吹く桧風の音に武士の面影がしのばれて芭蕉翁の句  「夏草やつわもの共が夢のあと」が思い浮かぶのであります