死 に ハ ザ ( 鰐 口 )

 幕末も終わりに近い頃の秋、川崎のごぼう茶屋の方からやって来た一人の侍が「おい!じじい大川津へ行く道はどっちだ、教えろ」と、一生懸命ハザかけをしていた年寄りを見上げて怒鳴りました。 「足の向いている方へ行けや」と爺さんはハザの上で答えました、「下に降りろ」立腹した侍は大声で怒鳴り、怒りに肩をふるわせながら刀に手をかけていました。下で稲を投げていた孫の栄三 (十二歳位) に「じや、殿様だれや」と教えられ、じさは恐るおそる降りてきて・・・「お侍さまと知らず、申し訳ありませんでした、お許しください」といって土に頑をすりつけてあやまったが、許さず刀を抜いて切りつけました。畑に逃げ込んだが及ばず、肩先に八寸も切り込まれてしまいました。
「ギャー」という悲鳴を聞いた村人は「何だ、何だ」と集まって来ました、怒った村人たちは、手に手に、鍬や鎌をもち「わっしょい・わっしょい」と大川津の港までおっかけたが、すでにその侍は舟にのっており、川向こうに逃げるところでした。
  「待て!その侍待て」と村人が口々に叫び、同船の他の武士と小八という目明かしの投げ縄の加勢で、 侍はとうとう捕まってしまいました。その侍は「俺は爺をみね打ちしただけだ」といって頑張りましたが、三条の代官所へ連れて行かれました。片桐という侍だったというのですが、捕まった時あばれて指を四本切ったそうです。その後誰ゆうともなくこのハザを、死にハザというようになり、この死にハザがなまって「しんはぎ」になったという事です。また、この時の少年栄三は、後に医術を学び、松本城の御典医になったと言うことです。