熊坂張攀と物見の松  (田尻)
  
 熊坂張攀は、鎌倉時代の天下の大泥棒であります。少々生い立ちを洗ってみますと、「頚城の藤沢村
の生まれ、知は張良よりも、勇は攀会よりもすぐれているというので張蓼と名のり、入道となって信越国境熊坂山に居を構えて、大山厳になる」と古い本にでています。この張挙が大河津村にいたといのですから、すみにおけない話でありましょう。田尻の 「馬ケ入り」という沢をどんどん入って行き、沢のつまったところを右へのぼると、張挙が住んでいたという張攣屋敷と伝える平らな土地があります。
 そこには馬洗いの井戸というのがあり「かって張攀一味が里から馬を盗んできて、この他でその馬の毛を染也て赤駒を黒駒にかえて他に売った」というのです。今もなおその井戸は残っています。一辺が一・三六米で、草むらの中に清水が湧き、一見してわかります、 無心で泳ぐ千貫虫だけが昔のようすを知っているのではないでしょうか。
  そしてこの馬ケ入の沢の途中に「とう田」というのがあり、昔そこに 「張挙物見の松」というのがあって、盗朕がこの松に登って海辺を通る者をみて、金、銀、財宝、人、属等にねらいをつけて奪ったという話で、この巨大な松はまことに大きく日が西に傾くと、その松のさす影は信濃川を越えて、真の代までも映ったと言われています。
 後年これを切りたおすのに七人の人足で切ったが、木っばがくっついてなかなか切れず、夢知らせで火を絶やさんようにして切れば良いと言うので、漸くそのやり方で切り倒すことができ、今は根を田の底に残すのみとなってしまいました。
 張攀は承安二年(一一七二)源義経に討たれたと言うことです。