五千石を開墾した平沢源之丞(五千石)
 皆さんは五千石の神社に行ったことがあると思いますが、境内で社に向って右手に石碑が立っていますね、そこには「五千石草創三百年碑」と彫られてあります。大正十年に建てられたものですが、五千石の部落ができてから三百年経ったというので村を挙げてお祝いをして時の県知事さんから書いてもらい、記念に建てたものであります。
 三百年の昔にさかのぼって、これから部落の起こりについてお話ししましょう。三百年前と言います七、漸く江戸幕府が成立したばかりの頃になりまが、この辺は今でも蒲原の名のように、所々がまだ沼地のようになって葦や、蒲等が生えていたのですね。和島村の日野浦というところに平沢源之丞という人が住んでいました。先祖は片貝の高梨山の城主であったのですが、落城して四散し、そこに住みついたと伝えられています。この平沢氏は水利にあかるく、開墾の仕事をすることがうまく、開墾師と呼ばれておりました。そして同じように開墾の上手な下桐村の近藤長左工門、尾崎村の久住佐工門、島崎村の大谷地善石工門、吉村の丸山庄左工門という開墾師の方々に呼びかけて、度々の信濃川洪水に見舞われ荒果てゝいた五千石の地に平沢氏を頭とする五人の衆が開墾の決意をかためてやって来ました。そして五千石を見事に開墾成功し、さらに手分けをして、新庄村、長新村、溝村、古新村、泉新村、新堀村、幸間村、木羽村、すみとり村、坂井新村、下筋村の十ニケ村の荒地を開墾しました、これらの村々の合計で、五千石も米が余計に積れたことになります、この五千石増収を喜んだ領主は、村の名前を五千石とつけてくれました。そして平沢氏の功績を賞して田一町歩の税を免じ、代官屋敷と呼ぶこと、刀や羽織りをつける侍の格式、さらに門を造ることまで許しました。今から三百三〇年ほど昔の寛永年間に開
墾は終わったのであります。ざっとこのようにして五千石の村が開かれたと考えてよいとおもいます。
 この平沢氏の門は、今常昌寺の門になっています。そしてこれらの事を書いた本は五千石の丸山久四郎さんのところにあります。