五月のおまつりの本番三日は、少々の雨だった。雨にぬらしたくない行列なので、大雨でなくて幸いだった。
 行列の早さは、急ぎ足で、カミシモ予定通りのオネリ。
ヒニクに翌日(四日)は好天気になって、町通りの売店や植木草花屋、金魚市に人がむらがっていた。
 町の議会だよりによれば、今年の一般会計予算は、四十一億七千万で子供からお年寄りまで安心して暮らせる町づくり予算といわれる。議会での質疑の中で、二〇二五年には、人口が八千七百人台になる認識を町長さんに質問されたに対して、高橋町長さんは、八千人台の人口であれば、町村として一定の規模は、維持できると思うが、住みよい町づくりのために一層の努力をしたいといわれました。
 時の流れは、ふるさとにも、遠慮なく変わり続ける。
四百年以上も、大工建築の主として、大工をそだてた磯町の矢部秀八家もお墓を残して寺泊が去ってゆかれた。最後のお弟子のひとり、天理市の住吉寅七さんは、ふるさとだより誌友。名工のほまれあり。
永年旅館として親しまれて大町のみのや旅館は、後継が教育者ばかりで、閉館された。みのや旅館は、もと磯町にあり日露戦争中は悲劇の「ああヒタチ丸」の乗員だった人も出た。美濃谷軍治さんは、みのや旅館主、校長先生、寺泊町助役として、ソツのない活躍をされた。先代も校長先生だった。
荒町の旧家、伊勢安さんは、むかしから、味噌醤油製造業のシニセ。明治初期の勤王の志士、柳下安太郎さんは寺泊町長。明治・大正の小学生たちは、学校の窓からイセヤスの煙突の煙をながめた。最近若いご主人公が五十四歳で急逝され、御子息が銀行マンで事情により、味噌・醤油のお店は終わられた。
昔は、おしきや旅館・京や旅館が大町にあったし、料理では、田甚と泉久がドッコイドッコイの腕前をきそったものだが、泉久は、姿をけし、田甚が旅館をかねてがんばっておられる。
五月三十一日には、
「元気な町づくりは、きれいな港から」を合い言葉に、みなとクリーン作戦がおこなわれた。まず港付近が町民ボランティアできれいになる。
みんなそれぞれの立場で、ふるさとをよくするために、身も心もささげているように、見受ける。すがすがしい緑の五月の風を内外の皆様、心ゆくまで御たのしみください。