何しろ台風十号は一番怖れているコースの佐渡直撃の予報である。
 一四七九名の選手のエントリーを受けて着々と準備を進めて来た、町最大のスポーツイベントシーサイドマラソン大会の当日と丁度重なるようにしての超大型台風の接近である。
 大会事務局の電話は遠隔地からエントリーしている選手からの問い合わせにてんやわんやの状態。「緊急事態の生じない限り、予定通り実施の予定であります」あくまでこの線で行くことに決定。秋はスポーツ大会が目白押し。
寺泊町立小学校の親善陸上競技大会は予定日が今年の天候不順にたたられて二回も流れてしまい、そうなると誰言うともなく校長先生に矛先が向けられる。
 三度まで流れるようなことになったらあとはスケジュールが詰っていて日程が組めない状態。これで十月九日の予定日が流れたら校長一同揃って坊主にでもならねばならぬかと祈る思いで迎えた九日。
 前日までとは打って変っての秋晴れ、海浜グラウンドはほっと胸をなで下ろす校長一同、そして元気一杯の子供達の歓声、応援の家族達の声援に終日燃えていた。
 とは言うものの児童数の減少は深刻で、五年生六年生が参加するこの大会では一番児童数の多い寺泊小学校で百二十名、次いで大河津小学校六十七名、本山三十三名、野積三十一名、夏戸二十二名、山の脇二十名と言ったところである。
 六校ある小学校、己に老朽化の進む本山、野積の校舎、複式授業止むなき山の脇小学校など検討してゆかねばならぬ問題をかかえつつも水泳大会、野球大会、陸上大会、音楽交歓会など各校の交流親善を深めている。
 つづいて翌十日も晴天の体育の日は恒例の町内めぐり駅伝大会は第四十二回を教えるに至った。
 今年からスタートを文化センターはまなすに変更、コースもなるべく町内を大きく廻るように大和田を第一中継点とし第二中継点の夏戸から年友戸崎下桐を通り、敦ケ曽根が第三中継点、国道を通り法崎から本山を抜けて京ケ入が最終中継点となり円上寺から旧前坂を抜け文化センターでゴールと言う初めてのゴースで熱戦がくり拡げられた。参加四十一チーム学校チームあり職場チーム、地域チーム、仲間チームと順位を競いつつも参加を楽しむ傾向も見えて年々充実した大会に感じられる。
 ゴールしたお父さんを奥さんと小さい娘が駆け寄って助け起こす情景などほほえましい大会でもあった。
 順位は一位野積光風ラソナーズ、二位寺泊健走会、三位年友Aチームであった。最後の選手がゴールすると同時に雨が降り出すと言う変り易い秋の天気の中であったが伝統ある大会である。
 十一日は海浜野球場の運動広場を会場に郡小学校野球大会が開催された。郡内十四の小学校が参加、野球は地域の親達が熱を入れて指導しているようでその分応援団も仲々で、それぞれ色とりどりの激励の横断幕が防球ネットに張りめぐらされて華やかである。寺泊からは五チーム(残念乍ら山の脇小は児童数が少なく今のところチーム編成ができない状況)が参加、本山コンドルスと大河津ビッグリバーが準決勝まで残り二十四日の大会に優勝めざしてのぞむ。
 さて再びシーサイドマラソン大会に話を戻すことになるが、町の公報から「明日のシーサイドマラソン大会は予定通り開催されます。皆様の御声援をお願いいたします。」のアナウンスを聞く中、近づきつつある台風に身構える思いで十七日の夜を迎えた。
 テレビの天気予報はまさに予定進路通りで、愈々超大型が佐渡沖を抜けるかとかつての第二室戸台風の記憶が脳裏をよぎるが、夜が更けても一向に風はいて来ない。台風は衰えつつスピードを早め予報通りの進路を進んでいますが暴風域はなくなった様子です。通過のあと吹き返しの強風にと注意下さい。十五メートルから二十メートル位の風が吹くものと予想されます。ほっと胸をなで下ろす思いであった。十五メートルや二十メートルの風はこれからの季節一寸荒れれば吹く風である。そして迎えた十八日はさしたる風もなくお天気はだんだん良くなる感じ。公報からの声も昨日に比べ晴れやかに聞こえる。
 しかし前日に準備しておくことが出来ず裏方は大変な苦労で当日は四時過ぎに集合での対応ほんとに何事につけ陰の御苦労あってのイベントである。
 スタート時点では風は少々強いものの快晴となって「天気晴朗なれとも波高しと言ったところかね」などと冗談も出る程。
 往路はアゲイソストの風で選手達は難渋したであろうが思いの外記録的には良い結果でコンディションが良ければ相当の記録が生れたものと思われる。特に中学生五キロ高野淳君一六分四十二秒、一般男子十キロ増井哲也さん三十五分四秒、一般男子三十キロ片桐亮さん一時間四十九分十六秒は昨年についでの優勝であり女子十キロの外山幸美さん四十三分三秒も十七、十八回大会優勝のベテラン。
 五キロ女子では高坂由樹子さん二十分六秒、十キロ高校高橋直希君三十九分三十秒、三十キロ女子清水礼子さん二時間十三分十秒がそれぞれ優勝した。
 二十回連続出場者は十六名で記念のブロンズが贈られた。走路途中での差入れは毒物事件の影響で一切禁止と思わぬトバッチリを受けてしまったが、天の恩恵の中での大会であった。