観光寺泊町の発展 古い歴史と豊かは自然
寺泊は由緒ある歴史や文化遺産に恵まれた町である。従って海や魚と共に早くからこの方面の観光開発が考えられ、保存、整備が行われてきた。寺泊町長を経て新潟県議会議員に選出された本間健四郎は、明治35年、順徳上皇行宮御遺蹟である大町の元菊屋五十嵐邸跡が、主家の没落によってすべて他人の手に渡っているのを憂え、その一部を買い戻して寺泊区有財産に編入し、史跡公園として整備した。大正4年10月に結成された寺泊実業協会の事業にも、寺泊案内記の編纂、名所絵葉書の発行等、寺泊の史跡観光の部分が盛り込まれている。『新寺泊案内』には、「我が寺泊は、由来多くの名蹟と明媚なる山水を有するのみならず、海水浴場として其の名高く・・・・・・・」、と述べている。
第二次世界大戦後は、逸早く片町の照明寺観音堂、良寛仮住の密蔵院から船絵馬のある白山媛神社、順徳上皇・藤原為兼・宗良親王の史跡である聚感園(しゅうかんえん)、良寛の妹むら子の墓がある上田町に至る史跡散策コースも設定され、『越し歴史自然ルート』、別名『ロマンス小径』とも言われて、今も観光客の人気を集めている。道中、生福寺台地から佐渡・弥彦の眺望と眼下にひろがる市街地の景観は特にすばらしい。
平成3年、寺泊町商工観光課発行の『詩情豊かな寺泊の史跡』には、冒頭、「風と潮が運んだ文化の地寺泊」として、次のように記している。「寺泊が日本の歴史の上に初めて登場するのは、弘仁13(822)年、国分寺の尼法光が旅人の難儀を救うために伊神の渡戸浜(わたべはま)(寺泊)に布施屋(無料宿泊所)を設け、渡船2隻を置いたという『袖中抄』(しゅうちゅうしょう)の記録であります。寺泊の地名もここに由来すると言われています。歴史の上でこの町が有名になったのは、順徳上皇をはじめ、日蓮聖人、藤原為兼や金山送りの無宿人たちが、不遇をかこちながらここから佐渡へ渡っていることです。
江戸時代の寺泊は北前船の寄港地であり、日本海の要港として栄えました。『万(よろず)覚帳』や『町御用留』の記録によると、越後米の移出港として日に千俵の米が積出され、また、北国街道の宿場町としても、千客万来の活気に溢れていました。渡部と寺泊を結ぶ街道の峠やその周辺に今も『千駄越』(せんだごえ)という地名が残っていますが、往時、米俵をつけてここを通った馬の賑わいが偲ばれます。一方、精神文化もここに起こり、白鳳期の存在が検証された横滝山の古い寺院や、奈良時代草創と伝えられる幾つかの寺との関わりもあり、寺泊の名が示すように由緒ある多くの寺が建ち、人々の信仰心も篤く、人情豊かな町として今に至っています。そして、鎌倉に関わる古い歴史と多くの寺と4つの海水浴場によって『北の鎌倉』『日本海の鎌倉』をキャッチフレーズに『観光寺泊』を期しているのです。
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