幽霊の寄附した袈裟  (馬越)

 馬越部落の光源寺には、今もなお幽霊が寄附したと伝える袈裟があります。話は今から二百五十年程音にさかのぼりますが、十一代目の和尚さんの時代のことであります。
 ある壇家の家にとやまという十二、三歳になる娘がいました。このとやまは、熊之森の滑石工門の世話で新潟へ養女となってゆきましたが、わけがあって、また今町 (今の直江津市) のある女郎屋のあとつぎにもらわれていきました。ところが、どうした事か娘がもらわれてきてから次第に客足が遠のいて店はだんだん寂れてしまいました。丁度年頃になったとやまは、「私が この家を再興させてみせるからどうか店に出してください」と養父にたのみましたが義理ある親としては、「お前さんは当家のあととりだからどうかそんな心配はしないでくれ」と申しましたけれど、とやまはきかず、とうとう女郎に身を落としてしまいました。するとどうでしょう、才色かねそなえた「とやま」の努力のおかげで、ぐんぐん店は再興されもとの景気に戻ったのです。養父は大喜び、とやまも二〇歳をすぎてからは支那通いの大船の船長に身うけされ、安穏な生活を続けていました。しかし運命のいたづらか、若い時の苦労がたたったためか、二十三歳のとき労咳 (結核) になってしまいました。
 青白くやせおとろいてとうとう二十五歳になったばかりで、すぐばったりと床に就くはど重体に陥ってしまったのです。ある夜のこと両親を呼んで、「私もう駄目です、私が思うには、どうもこの町に私の菩提寺の和尚さんが来ていられるようです、馬越村の光源寺というお寺です。どうかさがして下さい、一生のお願いです」とたのみますので、両親は寝ている娘がわかるはずがないといぶかりながらも町の宿屋を調べて歩きましたら丁度京都に行かれる途中の、和尚様にお金いすることができました。話を聞いて和尚は、「そうか、それは不思議なことだが、これも何かの因縁に違いない、行ってみましょう。」と早速とやまの枕許に来て下さいました。
 そして乞われるまま、とやまに仏法や人間の生死の話しをしてやったところ、とやまは大層喜び「京都の帰りに又お寄り願います」と頼みました。帰途和尚さんが立ち寄った時にはすでにとやまは虫の息でしたが、「これで安心して死ぬことができます。
 お礼したいが今となってはなにもありません、ここに船長からもらった丸帯が一本ありますからもっていって下さい」と申し出しましたが、「有難いが三十里の道は大変だから」と遠慮して寺へ帰ってきました。 さて、和尚が久し振りに戻った晩、寺の本堂で一人でお勤めをしていますと、突然目の前の蝋燭がゆらゆらすると同時に、ドスーンと大音響がしました。
 あー!、誰か死んだな、と感じ声高に経文を唱えていますと、すぐかたわらの伴僧の机の前にとやまが座っているではありませんか、和尚は全身脂汗をかいてとぎれがちの経をやっと唱え終わりました。
 すると、すーと、とやまの姿は消えてしまって、机の上に例の丸帯があがっているではありませんか、お尚は、この 「あわれな女心を秘めた丸帯」をねんごろに供養しました。
一ケ月程経ったある日、今町の養父が荷をかついで来て「娘から死ぬ間際に属越の寺に丸帯をととけてくれといわれたので、たんすの一番おくに入れ錠をかけておいたのですが、初七日もおわり、いよいよ持っていこうと患って見たら見当たりませんません。そんな筈はないとさがしたがみつかりません、それで今日はあやまり方々、代わりに、うちしき、をもってきました」と美しい刺繍の、「うちしき」を差出しました。
 和尚さまが、丸帯をもちだして一部始終を話しますと、養父は驚き、霊の不思議に心をうたれて仏の慈悲を念じながら帰って行きました。和尚さんは丸帯で袈裟をつくってかけていましたが、すっかり、すりきれてしまったので、今では用いず、記念にしまっておかれます。うちしきは明治初年に何者かに盗まれてしまったとのことです。