増山河内守と白川坊の話(新長と竹森)

 昔といっても江戸時代のはじめ、新長村は長新村と新庄村に別れていました。そして長新村古くは桑名領だったそうであります。桑名は伊勢ですがその桑名の殿様が越後の国に領土を持っていられたのです。そして桑名の殿様は、以前越後高田の殿様だったそうです。
 その桑名に、増山河内守という徳川家康の脇腹として生まれた二万石の殿がおられました、書画がたいへんうまく、雲斉と号していました。最新の人は、お伊勢まえりをしますと、その帰りに桑名に寄って雲斉の書いたものをよく頂戴してきたそうであります。
 雲斉は昆虫や花鳥を得意として画は、沈南頻という人から学んだそうであります。
作品は新長の地浦さんのところで威しておられます。 画の話しが出ましたのでついでにかきそえますと、「江戸の時代に白川坊という人がどこからか、ふらりとやって来て、竹森の道場に住み、画を描いたりしていましたが、やがてまたどこかへ行ってしまった、 白川坊というところから思うに、白河の松平家の継かが見回りにきたのではないでしょうか、号は大網、羅浮、など色々持っておられた」と竹森の山田さんは語っておられました。