平野新村と大蛇  (大川津)

 町軽井部落の南の方に平野新と呼ばれる池があります。昔この他のところに平野新村とよばれる村があつたそうです。
 ところが今から二百数十年前に地震があって地盤が下がってしまい、家も人も埋ってそこに池ができたというわけです、そして他のほとりには、昔のことを物語るかのように古屋敷の地名が残っています。
 池の深い所は十五、六尺も、あり、また町軽井駅 (昭和五十年三月廃止) のあたりが新田とよばれているそうで、また古文書をみますと「平野新村は村上の殿様の領分で、米が五十八石穫れ、蔵は敦ケ曽根と共同で地蔵堂にある。悪水は町軽井村のつきす附洲の中にあり、田地は大川津村の耕之丞が一部を持っているが、あとは町軽井の人が耕している」 と書いてあります。
 村があって家がない、こんな馬鹿な事はないのです、一体家はどうしたのでしょうか。おそらく村を挙げて蒲原地方に夜逃げしてしまったか、または上杉の殿様が会津へ移って行かれるとき、一緒にみんな行ってしまったのではないかと思います。
 さて、この平野新の池に大蛇がいました、大蛇は池の主で時々大木の様な姿を水面に浮かべていたそうです。ところがこの大蛇がきれいなお姫様に化けたという話があります。
 まあ聞いて下さい。近所の田尻村に、高田からの落人と伝えられる旧家があります。
 ある日一人の若い娘がどこから来たのか、その家の門前にたたずんで機織りの時に用いるおさ (梭)を借りたいとねがいまし七、老婆がいて梭を貸してやりましたが怪しいのであとをつけていったところが、平野新の池の中に入ってしまったのです。数日たってくだん(件)の娘が再びやってきて厚く礼をのべて梭を返しました。その折に、「私は池の主の大蛇です、おかげで立派な機を織らせてもらいました、お礼に、今後絶対に人をこの池で殺しません」と身をあかし、そこの家に蛇に噛まれたときよくきくという薬のつくり方を教えて帰って行きました。それからは池で死ぬものもなく、また蛇の薬というのは、「牛のひたい」という草に酢と酒をまぜてねって作ったもので、そこの家の人がつくったのでなければ効き目がないとのことであります。
 平野新池の岸辺に「機織り松」という大松が、池に生い出していたのですが (明治四十二年頃まで今の揚水機場附近にあった)今はもうありません。そしてしらうお (白魚)という小さな魚もいましたが、雷魚にくわれて今はいなく、鯉とじゅんさい(青菜)だけが名物となっています。
*平野新の池 (昭和三十二年町村合併で所在地は大川津から町軽井に変更されました。)