船 つ き 場 の 大 川 津
 越後の国に寛治三年(一〇八九)七月みなもとよしつな (源義綱) の家臣で佐々木三郎兵衛という人が書いたといわれる「越後の国の図」という古い地図がありますね、この地図は江戸時代の人が偽作したものだなどといわれていますが、古い越後を知る手掛かりとして一応大切なものでしょう。
 この地図に陣ヶ峰、大高津、砂子塚等とでておるのでありますが、かりに正しい地図だとしてみますと、寛治三年は七百六十五年前ということで、つまり大高津もその頃からあったというわけです。
 大高津は地図を見ますと川に突き出ておっていかにも港に相応しい形になっております。事実大川津部落は信濃川の蒲原平野に出ていくのどくびにあたり、川の港として栄えて来たものであります。津というのは港の意味で米などを船で出すことを津出しといいます、津津場などいう地名もあります、古津、新津、粟生津、米納津等、いずれも河と関係がありなるほどとうなずかれるのであります。
 とくに大川津は寺泊から道路が真っ直ぐにきており同じ桑名領でもありましたので、浜の荷物はこの大川津にきて、それから新潟、三条、長岡へと送られたものと思われ、また神社は港にふさわしい鞍掛神社であります。しかしこの大川津も大河津分水路の工事のために、村はたちのき (立退) させられ、田圃はつぶれるというひどい目にあい一変してしまったのです。