戊  辰  の  役
 明治維新。幕府がたおれて新政府がこれにかわっても、なお徳川幕府の恩をうけた熱血大名達は、幕府の弱腰に不満をもってついに明治元年、新しい政府にむかって戦いを始めました。
 越後の国では桑名の松平公や、長岡の牧野公の領地がたくさんありましたので、戦が日本中にひろまりますと、ついに大河津村も戦乱にまきこまれてしまいました。
長岡領、桑名領があるからであります。そして戦いの様子も色々と伝えられております。
 岩方の願念寺には官軍、また馬越の光源寺にも官軍方の与板城の軍がいました。光源寺の内陣を本陣にして経机をまな板かわりにして鯉料理をした。
 そして桑名の軍がせめたら弱い兵隊たちは弾などを井戸の中に捨てゝ泣きながら逃げていった。馬越の古文書等はトバを被せて外にだしておいたために雨で溶かされてしまい、寺の本尊は十二神社に七十日間もおきざりにされました。
 田尻の吉田さんのところには、桑名軍が陣をとっていて、毎日の戦争が終わると、川口のお寺へ生首を下げて「回向して下され」と頼みに来るのには寺も困ってしましました。
 百姓連は山へ逃げ込み、夜空にも砲声が轟き、スーと光を引いてとぶ砲弾は薄気味悪く、夜になって兵士達が[泊めてくれ」と言うので、泊めてやると朝には「わらじ銭をくれ」という始末でした、しかし桑名藩の指令 (大平) が討死すると幕軍方は散り散りになってしまいました。
 常禅寺には明治元年の五月二十九日から七月二十九日までの戦死者の過去帳がありますが、水戸藩、桑名藩の侍、二十五人の名が載っています。そして辞世の句も残されています。

 「あいて世にはてはともあれ桜花、
       ちるべき時にちるぞうれしき」
                 (瀕 正安)

 たとい朝敵とよばれても人間の情には、変りないですね、切々と胸をうつものがあるではありませんか。また丁度この年は五月九日に、信濃川の堤防が切れて、大川津、町軽井は大洪水になったのであります、濁流と砲弾の中で、農民の苦しみはいかばかりだったのでしょう。鳴呼。