首 な し 殿 様  (高内)

 高内の観音堂は今はだれも住んでいない無住のお堂でありますが、昔は多くの信者をあつめたお堂でありました。
 土の観音堂に新発田城主の溝口はうきのかみ(伯耆守)が寄進された、丈一尺五寸程の観音像があります。そして両わきには南蒲原の村々より奉納されたと言われる十六らかん様(羅漢様)があります。
これには次ぎのような由来があります。
 南蒲原郡は古くから水どころで、出水の無い年はめずらしいほどでありました。いまから百九十年程前の明和初年(一七六五年頃)に大洪水があり、溝口公もみずから検見のため領地内の湛水状況を視察されました。湛水した田畑に舟をうかべて次々とまわって行かれましたが、ふとその折、殿様と共に水面をみていた家来達は殿様の姿が舟辺の水にうつつていても、首だけがうつっていないことに気がつきました。一同不吉に感じて、さっそく舟を返しました。
 そして家来達が殿様に内緒で巫子にみてもらいましたところ、やはり、不吉な卜がでましたので「どうしたらよいか」と尋ねたところ巫子は、「災難を避けるには三島郡高内村に正観音が奉られてあるからそこへお祈りをすればよい」と答えました。早速家来達は、殿には内緒で高内に使いをたてて二十一日間の願をかけて祈りました。
 このことを耳にされた溝口公は、家来達の素直な忠義心に感激されて、高内に観音像を寄附されたとの事であります。それが今日まで残っていまして、お厨子にはちゃんと金泥で銘がかかれています。
 また、羅漢様は南蒲原の村々の百姓が殿の意を体して水難避けの為に寄進したものというのです。
 霊顕あらたかな観音様のお話でした。

*この観音様は、昭和三十七、八年の頃、安置されておりました村の観音堂から何者かに盗み   去られ、今はその写真だけが保存されています。