弁天島の由来  (敦ケ曽根)
 敦ケ曽根から求草へゆく道の傍らに弁天島がありますね、これからこの島について由来を述べてみましょう。横崎山の舞台塚古墳の研究で尽力された故星岩治さんの説では、「弁天島は古墳で、天日方奇日方命 (あめのひかたくしひかたのみこと) の奥方で、淳名底仲媛命 (めなそこなかひめのみこと) の御陵という伝説である」と言われております。
 また萬善寺村の明細帳をみますと、「弁天塚一ケ所の儀は」という書き出しで、次のように説明しています。
 「明和八年(一七七一)九ケ村溜を深くするためにさらった土を築くよう、桑名領代官坂本和工門と村上領代官横野伝蔵の立会いの下で塚を築いた。
 そして萬善寺の市兵衛が安永二年(一七七三)七月、寺の法師良久師という和尚さんに頼んで べんざいてん (弁才天) を塚の上に祀った」とあり、つまり溜めを掘った土ということになります。蛇が多くいるというのは、池の中にあった島だからでしょう。
 *この弁天島も、八ケ村溜(新庄、長新の両村の合併以前は九ケ村溜と呼ばれていた)地内に国道が整備され開発が進み、すっかり削り取られ、今は平地に祠堂だけが残されています。