ニッ塚と判官清水  (入軽井)
 三島郡和島村大字黒坂から大河津村大字入軽井にでる峠を『くろさか峠』と呼んでおります。出雲崎へ通う道として昔は重要な幹線道路で在りました。くろさかの名の起こりについて、「源義経は源九郎、または九郎とも呼ばれていた。このくろさかというのは、九郎義経が通ったから、九郎の通った坂道というので九郎坂となり、それがいつのまにか黒坂となった」と、こうゆう伝説を村の人達が語つて下さいました。しかもその峠道を登り切った道端に井戸が一つ在りまして、「弁慶手堀の井戸」と呼び、判官清水という名がつけられています、峠の上にありながらせいれいこおり(清冷水)のような冷さで夏など村人の喉をうるおしているとの事であります。
 義経の通り道というのは大変たくさんありますが、奥州へは何回も下っておりますので、方々に伝説があってもよいのではないでしょうか、そしてここくろさか峠の上には茶屋があり「弁慶力もち」というのを売っていました。
 またすぐ近くには、時の道をはさんできれいな塚が二つあります、それを村人はニッ塚と呼びならしてきました。
 伝説では、「建武中興の南北朝の争いの時、岩方の金ヶ崎城の瓜生判官が南朝方として戦ったが、その折に力及ばず討死した人達の霊を慰めるために築かれた塚だ」と部落の方々は信じておられます。
判官清水もニッ塚も共に鎌倉時代の悲しい物語をひめて、今なお余韻浄々たるものがあります。