腹をきった伝兵衛  (新長)

 寛文二年(一六六二)と言えば今から二九〇年余昔、徳川五代将軍綱吉の頃、ここ新庄村(今の新長は長新村と新庄村が一つになっ出来たもの)に悪水をのぞく工事がありました。この川はいっも逆流しますので、馬鹿川ともよばれましたが、この馬鹿川を掘るにあたって、小豆曽根山の切り通しを掘ってきますと、どうしても新庄村の田圃が真二つに割られることになれます。
 この設計を聞いた、新庄村の庄屋樋口伝兵衛は、村の衰微を恐れ一晩のうちに一人でほうじ (方示) の立替をし測量をなおしてしまいました。そしてその足で稲葉に行き村のためとはいい、勝手に役人のやった仕事をかえた罪を領主にわびるため、腹一文字にかききって死にました。領主は伝兵衛の意気に感じて、伝兵衛のなすがま〜に現在のような下川を掘ったと言うことであります。
 それで村人は稲葉を火葬場にし、また今でも六月二十四日の地蔵様祭の日を、伝兵衛親爺の命日として、その霊をなぐさめる日にしていられるとのことであります。