21世紀は寺泊里帰りの時代か
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新年になってお祝い気分の寺泊の人たちに、ショックの報道。
2025年になると、新潟県の人間が、93市町村でへるという推計が新潟日報(1月16日)に出た。
東京の統計情報研究開発センターの発表だった。
それによると、寺泊町は、12,761人の人口がやがて8,749人にへるという「オタクセン」である。
となりの出雲崎町は4,282人の「大ザイゴ(過疎)」になる。
元気のいいのは、となりの弥彦村や吉田町。それに新年になって寺泊町のあちこちを歩くと「ヨメがない」「ムコがこない」「トシヨリフタリが死んだら、あのうちはどうなる」などの話題がいっぱい。
こればっかりは、予算決算ですまされないゼニでケリのつくシゴトでない。
鮭の稚魚を分水に放して、数年後に戻ってくるのを迎えている寺泊の回帰性を見習って高齢化社会がすすむばかりの21世紀にむけて、
「おとしよりご夫婦お帰りなさいませ」のコースも大事なことでなかろうかというわけで、ふるさと寺泊に勇気を持って帰ってきて、よろこんでいなさる老夫婦二組を訪問した。
@ 本田半四郎御夫妻
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この人は、目下八十四歳。
昭和二年寺泊小学校を出てから東京で建築の名工となり、東宮御所にも出入りした人物。功なり名をとげたものの、余生を御夫婦で送るには、空気がうまくない、水も、お米も、あれも、これもというわけだし、せまい隣り合わせの人間関係もツカレルしということもあり、寺泊のニュータウンは一坪五万八千円で、東京都都心の値段と比べれば、タダみたいなもんで、百四十五坪買って平屋づくりにひろびろと、ふたりで、デーンとくらして五年、申し分ないとおっしゃる。夏は都からワンサと孫たちが海水浴のヤドするがな、若手が浜で寺泊の魚アメ横につとめて上荒町で別暮らし。
必要に応じて、いきのいい中のいきのいい魚たがいてくる。
まわりには、気にならないお隣が、ひろびろと陣取ってヤシキ街。秋になれば、コシヒカリのにおいだけでもハラいっぱい。奥さんも寺泊の人だから、生まれた時からの話題はつきない。半四郎さん益々達者だから、朝から少々お酒召し上がって上機嫌。ふたりで一杯やろうとすすめられたが、こちらは取材のくるまとあれば辞退したら、寝酒にと一本いただいて役トクあり。
あの気分だば、寺泊里帰りの御利益はすばらしい。
この人の弟で(川口市在住)、小学校の時に机をならべた人に、本田徳次郎という級友がいた。七十年もオトサタないので戦死したか、死んだかと思うていたら、立派に生きていたという話。あちらで大物になった。詩吟会数百名の会長をして、若い人を指導しておられる。十五歳の時から「センバン」を始め、六十余年におよぶ。目下まだ現役で、工場でセンバンに取り組んで、余念がない。残念ながら、数年前に愛妻をうしなって、娘さん三人の内の若い夫婦と同居。八十二歳。
A 武田静行御夫婦
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本田さんも、武田さんも、ふりるさとだよりの読者。
最近、建築のにぎやかな音を耳にしていたら、上田町の山の町一角にすばらしい新居が建造されていた。
武田静行さんのお宅である。永い間、東京で活躍されていたが、ことし七十四歳になられ、気管支を少々いためられたことが、御縁になって、二十年近く前に、亡くなっれた御父上の住まわれた上田町の山に住む決心をされた。
御夫婦がけの建物のしくきでなく、御子さん方などのセカンドハウス的要素もみられ、東京寺泊ヒトマタギのヨサを集約したようなたたずまい。
塩風も直接あたらず、庭木もいきき、雑音全くなく、春はウグイス、秋はモミジやイチョウの葉の舞う環境。
なにより空気が純粋なことが気管支にピッタリ。
窪沢も、東京に若いときいたが、皇居のとなりに住んでも、東京は、人いきれがすごくていやだった。
京都に住んでも、朝シキフをほしておくと、夕方とりこむ時、京都南のソメモノ工場からの煙のチリで、ヨゴレが苦になった経験がある。
寺泊てトコは、魚市場や、海水浴以外は、人イキレがなんにもない健康地だ。サアー年とったら帰らんばウソらてもんだ。