6月のひと日、かねて庭のさつきが見事と聞いていた野積三山の一ツ地蔵院を訪ねる機会を得た。
 例年であると照明寺観音講の頃が見頃とのことであるが、天候不順で今年は10日ほど花は早く、而も花つきが例年より劣るとの住職のお話だったが中々風格のある眺めであった。
 大正8年引退された住職といわれるから3代前位になるのであろうか、住職手づくりの庭とのことで眼下に野積寺泊の町並みと日本海を一望する眺望から見ても冬は大変に厳しい想像されるのだが、特に囲いなどはされないとのことで、風雪に耐えてきたさつきの枝振りが又見事な姿である。
 大変勤勉な住職で昼は田畑の開墾や法務で寸暇を惜しみ、月の夜を利用して庭造りをされたと言う。
 さぞかし月夜に眺める庭は格別の風情があるのではないかと推測される。
 そろそろ観光シーズンを迎える西生寺には訪う客の姿も見え、向かいの南泉院では本堂の新築工事中で青葉若葉の中に木の香りも新しい本堂の屋根がそそり立っていた。
 元々この場所には西生寺一ケ寺だけがあり、南泉院、地蔵院の二ケ寺は野積浜の村中に在ったのがそうであるが、300年ほど前に3ケ寺一緒になり、当時は出城的な役割をもっていたらしい。
 南泉院は山越えの通路の真中に位置するように建てられており、交通者の監視や山に入ったところにある水源の管理が担当し、地蔵院は下界一望の位置にあり、海や村々の様子又下からの道路の監視などを役目としていた。
 この三つの寺の山号は一緒で「海雲山」又、大変面白く聞いた姓も同じものだったとのこと。
 出家した僧達は姓をもたず戒名を我が名としていたが、戸籍簿作成のことから姓が必要となり、野積山は弥彦山の裏側に位置することだし、取りあえず便宜上のことだから三ケ寺とも同じ神浦という姓を名乗ることにしたが、同姓では色々と間違いが生ずることが多くなり、何とか区別できるようにとのことから西生寺は「カミノウラ」、南泉院は「コウウラ」、地蔵院は「カミウラ」と発音することにしたとか。
 高い天井で青葉風の吹き抜ける大茶の間で住職と何やかんやそんな話をお茶を頂きながら小一時間、そういえば八百年程前に越後流罪の親鸞聖人が蒲原方面(越後七不思議として各地に御旧跡が点在)へ布教伝道に山越えされた際、腰を下ろして休まれた石があるとのことを思い出し案内していただいた。
 勿論この寺は当時ここになかったわけで見晴らし佳い本堂の前の崖っ渕に姿のよい松が植えられその下に腰掛けるには低すぎるのではないかと思われる石があり、その脇に記念の大きな句碑が建てられていた。

なつかしと
 飛んでは戻る
    蜻鈴かな  句佛

 腰掛けの石は崖の近くの為崩落防止の工事などの時に段々埋まってしまった物もので元はもっと高々していたようで、本願寺彰如(句佛)がこの地を訪ねて作られた句(この地の外に分水公園や近くの笈ケ島念寺にも句碑がある)を刻んだ記念碑を建てようと昭和初期真木山原田某氏の発案があったが何しろ資金の宛もなく仲間数人で思案の末一計を案じ、近隣の奇特家に呼びかけて5円持ち寄り酒盛りの会を開きその剰余金を資金に当てることとなりこの碑が完成したとのこと。
 石は仙台から野積浜まで船で運び、漁師のロクロを使って引き上げたそうで何と7日7夜かかっての搬送だったとか。
 ちなみに当時の5円は今の10万円位、今そんなことで10万円持ち寄り酒盛りを案内したら何人くらい集まってくるだろうかと考えてみるに、一人も集まらんだろうねとの結論。一寸さびしい話になったが眩しい程の緑の中で最後はお互い呵々大笑いしてお別れした。