毎年夏を迎える度に天気具合に気をもまねばならぬのは、海が町の動向を大きく支配する町に住むものの宿命みたいなものか。
 一般的に言っても、子供達の一番長い休暇の季節、而もその期間中には古くからの行事や新しい時代に即した数多くの楽しい計画が詰め込まれていて、やはり一年中で一番生活が活性化する季節である。
 四季と言う普段あまり気にしていないが思えば地球的に見て特殊で恵まれた気候の変化をもつ日本。
 今夏の港まつりのゲスト歌手神野美佳が「春夏秋冬屋形船」と言う艶歌にしては一寸特異な感じの歌ー雨の港まつりになってしまったがフィナーレで歌ったところを見ると彼女にとっても深い思い入れのある歌らしい−を歌っているが、我々の生活
はきっちりと四季に組込まれて、振り返れば、季節を通して思い出を重ねて来ているように思われる。
 その四季への色分けも大変興味深かいものがあり、青春、朱夏、白秋、玄冬と何時の時代誰方の発想によるものやら素晴しい感覚の持主がいたものである。
 熱戦の甲子園も劇的な横浜高校の優勝で幕を閉じ、ブロ野球も愈々終盤、そろそろ秋場所が話題になる季節だが、四本柱に青赤白黒の色を配した土俵のデザインも毎度の事ながら見る度に日本人の美的感覚の素晴らしさに誇りを感ずることで、五輪マークは土俵の色彩を因にしての発想ではないかと思っているのが私の個人的偏見による持論。
 それにしても今年の夏への季節の移行はアジサイには気の毒と思われる程雨の少ない梅雨の期間で、春先から今年の天気はおかしいと言われて来たものの七月中のあまりの天気の良さに今年の夏はいい夏になりそうだと誰の胸にもそんな期待感を抱かせるものがあった。
「衣替え」なんと優雅で心ときめきつつ生活の切り換えをうながす言葉ではないか。
 今時は暖冷房どころか除加湿自由自在と言う時代ではあるが、特に学生達の装いがパッと白に代り、軽々とした雰囲気が街に満ち溢れ、うす物の盛装が街を闊歩する。
 夏は女性開放の季節でもある。男は半ズボンと言うわけにも行かず、ましてや甚兵衛ステテコではせいぜい漫画の材料程度かお笑い番組の衣装と言ったところ。
 それに比べれば女性の夏のファッションはまさに開放的で而も何でもあり。
 シースルーのパンタロンをひらひらさせながら大振りの帽子にサングラス、ハットする程深いスリットのボディコン気味のロングスカートにブラジャーそのままかと見違う下着にスケスケのブラウス、ミニやパンツルックは可愛いいと言われ、水着の上に風呂敷様の布を巻き付けただけで大通りを胸張って歩けるのだから全く羨しい限り。
 それに今年は不況ムードで折角の夏の季節的な開放感も沈滞気味でパット明るい気分になれないのは長引く梅雨のせいだけでないようだが、その中でも贈答自粛で大打撃のデパートでゆかた売場は特別の売れ行きとのこと、色とりどり着易く気楽で値段もほどほど而も一寸普段の自分から変身できると言うところが人気のもとらしい。
 せめて我々男はその艶姿で目だけでも楽しませて貰うと言うささやかな期待を持つことにしようか。
寺泊の夏祭りに先だっての長岡まつりの花火も二、三日の花火の打揚が、寺泊とダブル形で六・七日に変更。
 そちらの見物を主体に帰省していたお客さんはガッカリで、「寺泊の花火は何年もつづけて見せて貰ろたすけ、今年はっかしゃ長岡の大花火孫達にも見せよと思て、休みも合わせて取ってきたてがね、美いな夕日を一度も見ねで帰らんてほならんてやら、雨ばっかで海へ連れて行がんねは、しょうがねすけ、実家のあねきには大迷惑らろゝも孫共だけ寺泊の花火まで預って貰ろて次の連休にでも又迎えに寄せて貰うこて」と折角身についた東京弁や関西弁も感情移入のクドキ文句になるとついついふるさと言葉がムキ出しになる。それでいいのだと思う。
 ふるさとっていざと言う時に出番になるものなのだ。
 それでも一日の盆参は天気に仙まれてなんとなく亡き人の後生をほめ、ご先祖のお陰とよるこび、今迄にお目にかかったこともない程の流すような雨に、被災地の様子に胸を痛めながらも海に近いせいか水排けはよいようでさしたる被害もなく、春の祭りのドブ掃除の放水がなくなった分、この大雨で側溝がきれいになったなどの声もあったが、海は黄泥色に染って、夏祭りは来る、お盆は来ると言うのにこの海の色では商売にならないと関係業者は気を榛むもののこればかりはお天気の回復と海の浄化力を待つ他ない。
 今年は春祭りの雨がこんなところにたたってくるのか。
他の催しは今までほとんど好天に恵まれて順調だったのに。
 それでも長岡の花火が日延べになったのは長期の天気予報をじっくり研究してのことだろうからうまく天気にはまるかもと近づくサマーフェスティバルと花火への日数を数えながら待つ心境は、直接関係役員でなくても気が気なもんではなかった。而もその間遠くの親戚知人か
ら水害見舞の電話や葉書きが舞い込んで来ると言う状況である。
 いよいよお祭り当日。さすが日延べしただけあっての本日なりと思わせる朝を迎えた。 方々才である。お天道様(まさにこう書きたい心境であった)さえ顔を見せてくれて、お祭り日和問題いなしである。
 私も長岡花火見物のついでに一寸足を延ばしてくれて、はじめて訪ねてくれた学生時代の友人家族を迎えてお昼を案内して先ずはビールで乾杯、地酒とカニ料理で積る話に花を咲かせ、青々と拡がる日本海を自慢しながらの約二時間。
 ふっと気づくとサーッと通り雨。おやと思って西の沖を見れば、さっき迄のお天道様の姿はどこへやら、何やら怪し気な暗青色の重い雲が西空を覆い始めている。
「おい、今夜の花火は危ないぜ。」「よせよ、折角東京から滅多に遇うことのない娘まで連れての花火見物だぜ。」「悪いけど半分あきらめた方かいいよ。毎日見ている空の具合から見て、特に長岡方面は山に近いだけに危いね。どうせ駄目ならあきらめて、花火は明日の寺泊のにして、このまま飲むとしようじゃないか。人間、見極め、あきらめが肝腎だからね。」飲んだ勢いで相手の立場も考えず言い過ぎたようで、急に友人も落着かなくなって、途中の混雑も考え十月の同級会での再会を期して、地酒一本お土産にあたふたと席を立った。
 雨の花火の中で口悔しい思いをしながら私の予報の適中に感心もしているかとふと思ったりしたものだが、他人車ではないこちらの折角のサマーフェスティバルと民謡流しは到々雨にたたられる結果となった。
 少々ガッカリして迎えた翌日は雨。今年は天気も祭りも景気に引きづられて駄目祭りで終るなあとみんなガッカリ気分。
 気にしながら何度見ても外は相変らず降ったり晴れたりのだらだらした天気。
たまに沖の空が少し明かるくなれば、おっと期待してみるものの又パラバラと雨が来る。きっと大勢の子供達がテルテル坊主を吊してくれたことだろうと想像する。
そんな中で町の公報スピーカーからは「本日の海上大花火大会は予定通り午後七時半から、中海水浴場花火会場にて打上げれます。大勢の皆様のおいでお待ちしております。」雨の中での花火打上げの放送など何とも気の乗らないもので気分は白け気味。放送の後に、「なーんちやって」など付け加たてやっぱり気になって沖を見ところが午後に入ると暗かっこ沖の雲が切れて時々陽射しがもれ始めたりする。
 その中段々に雲の切れ間が拡がり青空が見え始める。
 埠頭の方を見ればいつの間にかまばらだった人影が岸壁からこぼれんばかりに並んで釣り糸を垂れている。
 早速カメラをセットして海岸へ。
 己に役場職員、交通安全協会の係員が誘導灯など片手にそれぞれの持場に急いでいる。「いや'、いい花火日和になりましたね。おめでとうござんす。」「いやいや心配したろも良かったて。町長さんこしょがよかったろかね。いや、観光協会長かな。」気安〈冗談も飛ぶ。
 待った花火ようやく幸運に恵まれて、あとは打上げを待つばかり。
 釣船を仕立てての桟敷船のエンジン音も軽快に次々と出航してゆく。
 今年の花火はよい花火、お空に揚ってポーンポン。