ふるさとだより主幹の父が腸閉塞でたおれ二十回目の入院加療となった。近年までペットのうえでも健筆をふるった父だが歳入十をこえるとさすがに気力体力の衰えを感ずる。
 そんなことで今月のふるさとだよりは息子の私がとりあえず編集することになった。
 父はだいたいなんでも自分でやらないときがすまない性分で人との共同作業がへタである。俗にワンマンというのか、むかしかたぎといってもいいかもしれない。ふるさとだよりの原稿書いてくれとたのまれたことは一度もない。もっとも新潟市の印刷足さんへの持ち運び、発送などの裏方仕事はすべてやってきた。ある日、専門の写真足さんに、写真はあなたのほうがうまいねと褒められたことがあった。お寺の新聞だけは私が時々編集発行していたからである。
 父はふるさとだよりを手直しもせず、一気呵成にでかしてしまらノ。
写真も車でのかみしもはしってパチパチとってハイ出来上がりという感じだ。父の車が向こうから来るとすぐに分かる。シルバーマークがはってあるからだ。
 だいたいせまい町のことだから塵丁をみただけでだれそれと分かるのだ。そんな父にも新車交換の時期がきた。サニーもカローラも分からない父の車はタイヤを履いていればいいのである。真冬にクーラーつけて真夏にヒーター入れて走っているくらいだから。そんな父が引き取られていく車に神妙にお経をあげているではないか。「長い間ありがとう、お世話になったよ」と語りかけているようであった。一事が万事で、老松が松食い虫で切られる時もそうであった。お鋳さんだからといわれればそれまでだが、なにか今の世の中が失ってしまった感覚がそこにあるように思える。
 さて今年は我が家にドイツからの女子留学生がホームステイしたが、おじいさんのことをおもしろいおもしろいと連発していた。その彼女の影響もあって今話題の「タイタニック」やら洋画ものをずいぶん鑑賞した。
 燕三条にできたワーナーマイカルには新作物が続々やって費て、学生や若いカップルでいつもにぎわっている。そこに老人がまじるのもおかしいが「プライベート・ライアソ」はおじいちゃんに是非みてほしいとみんながいう。それは一機関銃兵十がみた…焼烈な戦争の修羅場と音情を描いた物語だった。おじいちゃんはそれを見て涙がでて涙が出てどうしようもなかったといった。
 四十五年間まだ一度も父の涙を見たことがなかったので、父の胸の底ひをうかがいしることができたような気がする。