先生のおかげ
     友達のおかげ

                  窪沢泰忍


 二十世紀で一番不景気といわれる昭和四年に卒業した百三十入名中、上の学校に行けた子供は、ひとにぎりにすぎない。
 そして、青年期にかかると戦争に巻き込まれ、クラスの大部分が三年四年と戦場にたたされ、級友三人に一人の割合で戦死した。私など僧でありながら、六年間各戦線で重枚閑銃を撃った。
 その後、戦後の苦労で友達が若死にした。二十世紀の生証人といわれる大正ヒトケタの異常な人生の生きざま。
 生まれた時から世界大戦が始まったせいか男の子はキカン坊がおおく、ケンカが絶えず、それもグループにわかれて戦った。
 しかし泣いたり、泣かしたり、たまにケガをさせて問題になったが、陰湿な「いじめ」はまったくなくあっさりしたものだった。私は五年生の時、体操の時間に友達を誘って山へ粟もぎに出かけた。
 学校の職員会議の結果、単身赴任の校長先生宅で二学期の終わるまで、日曜の午前中習った漢字を書かせられ三時間。おわると校長先生の批評がかかれた。おかげで一生モノ書きが好きになった。なにがプラスするか判らない。
 昔は悪いことをすると、かんどうという罰があった。夜までウチには入れないおきて。私は困って、二年生の受け持ち先生が病気で寝ておられたので、「先生、おれかんどうされちゃった。だいて寝てよ。」 と床にもぐりこんだ。先生の下宿の他に友達の家にもとめてもらった。
 入十歳を過ぎても、校長先生と受け持ち先生のお裏参りをかかさない。生まれ育った家庭から、いきなり小学校六年間で、人生のキソを作ってもらった先生よ、友達よ、ありがとう。